本記事では和紅茶が歩んできた約150年の歴史をいくつかに分割し、シリーズ更新していきます。
一冊の資料では知ることのできない、時代背景の細部まで時系列順に解説していきますので、最後までお楽しみいただければ幸いです。
1. 国産紅茶産業の幕開け
国産紅茶が国家をあげた産業として始まるのは、1874年に内務省勧業寮農政課に製茶掛が設置されたことに端を発します。
同年、政府は『紅茶製法布達案並製法書』を日本各地の府県に配布し、紅茶製造の推進を図ります。さらにこの時、内務卿の名で紅茶伝習規則も公布しました。
黒船来航によって日本が開国してからは日本茶が主要輸出品となり、1867年の大政奉還以降は富国強兵のために更なる外貨を得る手段として、既に紅茶へ移行していた世界の需要に対応する目的で明治政府は紅茶政策を強く推奨するようになりました。
2. 多田元吉の海外視察
1829年、上総国(現千葉県)富津に生まれた多田元吉は成長すると剣術を学び、幕臣となりました。
しかし、江戸幕府の大政奉還によって政権が明治政府へ譲渡されると、元吉は1868年(明治元年)に徳川慶喜に従って駿河国へ移り長田村(現静岡市丸子)を拝領します。
そしてこの地で官林5町歩を開拓して茶栽培を始めた元吉は、1875年に明治政府によって製茶技術を評価され、内務省勧業寮へ配属されました。
勧業寮所属の政府役人となった元吉は同年に茶業視察のため清国湖北省などへ派遣され、清国産の茶に関する情報を収集し、また湖北省からは茶種も持ち帰っています。
同年に内務省は清国人の製茶技師を雇い、大分県の木浦と白川県(現熊本県)人吉に国内最初の紅茶伝習所を設立して、中国式の紅茶製法をこの地の茶農家へ伝習しました。
熊本県は伝統的に山間部に自生する茶樹、ヤマチャを用いたお茶づくりが盛んな地域であっため、この時紅茶を作るのにはヤマチャを用いていたようです。
(熊本県 お茶のカジハラの茶畑風景)
1876年、明治政府は再び元吉を海外の茶業視察へ派遣します。同じく勧業寮の職員であった石河正竜、梅浦精一らもインドに派遣し、インド式の紅茶製造方法を学ばせました。
かつての幕臣を政府へ雇い入れるだけでなく、外国人技術者の招聘や積極的な海外視察も行うなど、国産紅茶の輸出産業化に向けた明治政府の強い意志が感じられます。
ここで少し、日本へ伝えられた中国式とインド式の紅茶製法について解説いたします。
C. A ブルースが1830年代に残した記録によると、中国式の紅茶は日干萎凋→発酵→釜炒り→揉捻→乾燥の工程を経て作られており、現在の烏龍茶系統のお茶だったようです。
紅茶と烏龍茶が製造工程の違いによって定義づけられたのは比較的最近のことで、当時のイギリス人は紅茶と緑茶こそ区別していたものの、紅茶と烏龍茶はひとまとめにブラックティーと呼んでいました。
そしてイギリス人は当時の中国式紅茶をボヒー、コングー、ペコー、スーチョンなどと分類し、その中でも価格の安いボヒーと、より水色が濃く芳香の強いコングーを好み、買い付けたため、清国人はそこからさらに発酵を強めたものを作るようになったようです。
一方で、イギリス人が清国人技師を招いてアッサム人に作らせ始めた頃のインド式紅茶製法は、初めは中国式と変わりなかったものの、元吉が視察に訪れる頃には室内萎凋に置き換わり、また釜炒り工程も欠落したものに変わっていました。
さらに揉捻方法についても、初めは中国同様に手揉み式を採用していましたが、イギリス人技術者のウィリアム・ジャクソンが1873年に揉捻機械を開発すると、その工程は徐々に機械化されていき、人の手による揉捻は殆ど行われなくなります。
1877年に元吉らが日本へ帰国すると、政府は高知県下で早速インド式の紅茶製造方法を試させました。
この時に作られた紅茶5,000斤(約3,000kg)は主にイギリスへ輸出され、概ね好評を博したようです。
加えて、元吉の持ち帰ったインド茶種は新宿試験場をはじめ、京都、兵庫、三重、静岡、千葉、愛知、滋賀、高知の各府県にも配布、播種されると、後にそれを用いた試作茶は海外へ輸出され、これもまた好評を博しました。
(多田元吉の石碑と多田系インド種の茶樹)
また同年には清国人の胡秉枢によって、中国の茶栽培や紅茶や烏龍茶をはじめとした茶製造に関す技術をまとめた書物『茶務僉載(チャムセンサイ)』が内務省勧農局より出版されました。これは日本に初めて中国の紅茶や烏龍茶の作り方を紹介した書物でもあったようです。
3. 国産紅茶産業の躍進
元吉が帰国し、いままでとは異なるインド式紅茶製造方法を伝え導入したところ、これが海外で高評価を獲得したため、日本はインド式の紅茶を模範とする方針で国産紅茶産業を発展させていくこととしました。
1878年には政府から『紅茶製法伝習規則』が発布され、さらには東京、静岡、福岡、鹿児島にも伝習所が設置されます。
加えて元吉も、海外視察の経験を活かして『紅茶製法纂要上・下』を発表したり、実際に製茶指導を行いました。
国産紅茶の製造技術に革新がもたらされる一方で、今度はそれの輸出を担うものが必要となります。
その大役を担ったのが三井物産や大倉組商会です。
1879年に開催されたシドニー万国博覧会では日本の伝習所製造の紅茶が出品され、優等賞を獲得しました。
政府の強い勧業の効果があってか、産業が興ってから僅か5年ほどで、日本産の紅茶は海外で通用するレベルに到達していたのです。
翌年の1880年、政府は岐阜、堺、熊本の三県にも伝習所を、鹿児島と大分には分製所を設置して、国家をあげた産業の拡大は続いていきます。
ちなみに、今日では一般的となった棚式乾燥機(いわゆる棚乾)ですが、前述したウィリアム・ジャクソンによってこの年に開発されました。
4. 日本茶輸出の窮地
初めて産声をあげてからここまでの6年間、好調が続いていた国産紅茶産業ですが、まもなく雲行きが怪しくなってきます。
まず1881年に高知、熊本、福岡3県の紅茶会社が集まり横浜紅茶商会が設立されると紅茶
15万斤(約9万kg)をオーストラリアへ輸出したそうですが、これは今迄のような大成功とまでいえる結果は残せませんでした。
この時、メルボルン駐在大使からはかつてのオーストラリア市場のように中国茶だけを競争相手とするのではなく、アッサム茶の存在も考慮する必要がある旨の報告がされていました。
実際、世界の主要な茶の輸出国であった清国産紅茶及び緑茶ばかりを競合として見ていた国産紅茶産業は、急速な発展を遂げるインド産紅茶の脅威に晒されることになります。
イギリス領インド帝国のアッサムで1830年代から研究、開発が続けられていたインド産紅茶は、60年代以降徐々にその頭角を表し、1882年に初めてオーストラリアへ275万ポンド(約125万kg)もの大量の紅茶を輸出しました。
一方で、同年、秋田組商会によって日本からオーストラリアへ送られた緑茶の中から、い草などの異物を混ぜた不正茶が検出されると、日本茶に対する信用が失墜し、紅茶を含む日本茶はオーストラリア市場から撤退することを余儀なくされました。
そのため、前年に結成したばかりの横浜紅茶商会は、年内に早くも解散してしまいます。
この不正茶問題はアメリカ市場でも深刻な問題として捉えられ、不正茶輸入禁止令が議会で可決されました。
この規制強化は、国産紅茶のアメリカ市場への新規参入だけでなく、茶業界全体にとって依然大きな障壁として聳え立つこととなります。
またインドはアメリカ市場にも紅茶を輸出していたため、オーストラリア市場が絶望的となった日本は、不正茶問題を克服できたとしても、再びインドと競合せねばなりませんでした。
5. 茶業組合の結成
オーストラリア市場を失い、アメリカ市場でも窮地に立たされた日本は1883年9月に第二回製茶共進会を神戸で開催、そして同年11月には初の全国茶業組合となる茶業者による集会を開き、茶業組合準則を規定しました。
当然、異物混入や着色などを禁ずる不正茶取締規則も同業準則に盛り込まれています。
また日本は新たな市場開拓として、1882年にロシア向け磚茶(てんちゃ)の輸出を開始します。
こうして国産紅茶産業だけでなく、日本の茶業界全体が一丸となって市場の拡大と確保のために尽力しました。
(茶の蘭字ラベル 当時は輸出用の茶箱などにこのようなラベルがはられていた。ラベルには茶種や製法などが記載されている。写真は益井園所蔵のもの。)
その後、全国的に地方茶業組合が組織され、それらを取りまとめる中央茶業組合本部が1884年に設立されます。
1885年に茶業組合中央本部会議が初めて開かれると、政府からは岩山農務大書記官が出席しました。
そして、この会議では中央茶業組合本部役員が選出され、茶樹の栽培を奨励していた経済官僚の河瀬秀治が総括、茶の輸出に大きく貢献していた大倉組商会の大倉喜八郎が幹事長、日本茶貿易に多大な貢献をした商人の大谷嘉兵衛が幹事を任されました。
役員に選ばれた面々から、この当時の日本が如何に官民ともに製茶輸出へ力を注いでいたのかがよくわかります。
かくして本格的な茶業組織が立ち上がると、不正茶の取締強化に加えて、組合が直接海外視察調査員を派遣して、海外情報を収集するようになりました。
また国内の製茶輸出体制が本格化したこの年から国産紅茶は、インド産紅茶に遅れをとりながらもアメリカへ輸出されるようになりました。
6. 世界の茶市場における日本の情報活動
1886年、元吉のような政府職員の派遣ではなく、茶業組合本部から人員を起用して直接海外の茶市場に関する情報収集を行うことを決めると、政府は平尾喜寿を海外派遣調査員として選出しました。
調査対象となった地域は主な茶生産国であった台湾、中国、インド、セイロンです。
しかし、この調査で派遣された平尾喜寿は製茶などに関する深い知識を備えていなかったため、取り分けて新しい情報は得られずに終わりました。
民間では、同年に大倉組ロンドン駐在員の横山孫一郎がロシア及びシベリア地方の茶業調査を行い、消費量の多さから日本茶の輸出先として期待できる旨の報告を残しています。
またこれまで輸出向けに生産が行われてきた国産紅茶は、この年に初めて国内で一般向けに発売されました。
この時銀座で発売された「三重紅茶」は、一箱辺り1ポンド20銭、上製だと35銭で売られており、これはお米15キロの価格に相当するかなり高価なものであったそうです。
対して海外産の紅茶が初めて日本へ輸入されるのは翌1887年のことで、あくまで紅茶は輸出作物であり、国内においては紅茶を消費する文化は殆どなかったであろうことが窺い知れます。
同年、農商務省は茶業組合規則が発令し、茶業組合中央本部は拠点を横浜に構えるとともに、組織名を茶業組合中央会議所へ改称する運びとなりました。
1888年、政府は茶業組合中央会議所の平尾喜寿を今度はロシアへ派遣すると決めました。
しかし、これについては報告書が現存しておらず、どのような情報が得られたのかは不明です。
いずれにしろ、茶業組合が組織され、元吉のような政府所属以外の人員が直接海外の茶業視察を行うようにはなったものの、思うような成果をあげられることはなく、結局は海外支局を持つ商社や在外公館、領事館からの情報が頼りの綱となっていたことに変わりはありませんでした。
とはいえ、三井や大倉組をはじめとする民間の商社は海外の報告はあげるものの、この当時はまだ十全な情報活動を行えるほどの力はなく、在外公館や領事館などの報告書が海外茶業情報の要となりました。
特に領事館が定期的に発行する「領事報告」は有用で、紅茶以外の輸出向けの茶として、例えば1887年の『通商報告』に掲載された上海領事館の「清国産茶状況」の中ではロシアや中央アジアで需要のあった磚茶(てんちゃ)を日本へ紹介しています。
それまで磚茶に関して日本国内における認知は殆どありませんでいたが、実のところ、1875年に多田元吉が清国へ派遣された際にも清国産磚茶及びそれに関する情報を持ち帰っていました。
(中公新書 角山栄著『茶の世界史』から引用)
元吉が伝えた磚茶は当時の国内製茶技術では再現性がなかったため、1877年のインドからの帰途で再び清国を訪れた元吉はその製法を学び、改めて日本へ伝えたことが知られています。
前章の冒頭では簡潔に述べましたが、元吉による製法伝達に基づき1882年には初めてロシア向けの磚茶が輸出され、明治末期までこれについても研究、開発が進められるなど、日本茶業全体が輸出業の存続と発展の道を模索していました。
記事作成担当:馬原 正行
参考文献
出口保夫(1995) 『英国紅茶の話』. 東書選書. 東京書籍株式会
日本紅茶協会(2003). 『20世紀の日本紅茶産業史』
小川後楽他(2003). 『日本茶業史資料集成 第5冊 茶業五十年』. 文政書院
松崎芳郎編著(2012). 『茶の世界史 新装版』. (株)八坂書房
角山栄(2017). 『茶の世界史 改版』. 中公新書. 中央公論社
松下智(2019).『アッサム紅茶文化史』 . 生活文化史選書. 株式会社雄山閣
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